アウシュビッツを持っている。
といわれます。
「あなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない」
アウシュビッツ収容所を経験したフランクルは、生きる意味をそう教えてくれます。
なにをしたら良いかがわからず、存在の小ささを感じて、
無力さを感じて、
何かをしていても、そのことにどんな意味があるのかがわからなくて、
こんなに苦しい思いをしているのに、出口の方向すらもわからなくて、
こんな思いをしてまでも生きなければならない。
その意味がわからなくて。
誰かに、何かに その答えを求めて、恐るおそる近づいて、
ほんの少し 心のヴェールをはずしてみる。
ヴェールのはずし方が悪いのか、深い納得は得られない。
何度か試してみるけれど、いつも結果は同じ。
自分のためだけの答えが欲しい。
だったら一層の事、
思考することを止めて、行動することを目的にすれば。
そんなふうにも考えてみるけれど。
・・けれど・・・・・
思考を止めることを受け入れられず
何に向かって行動すれば良いのかがわからず、
苦しくて、
こんなにもがいても、答えを求められなければ 『もうダメかな?』
そんなふうにしか思えず、楽になりたくて。心身活動の停止を試みる。
思い悩み、苦しむ自分。
けれど それとは全く関係なく、
「自分だけのレールがゴールに向かって、確実に自分を導いてくれている」
「人生はあなたに絶望しない」とはそのことなのでしょう。
現実に流されるのではなく、現実や感情も含めて「自分は存在している」
その事実を信じることが出来れば、目に見えないレールの存在を信じることができるかもしれない。
自分の今を、見えないレールに沿わせる活動。
生きるとは、そのことなのかもしれないと思いました。
アウシュビッツ収容所は外から生命の安全を脅かされる場所。
こころのアウシュビッツは外部と自己との交流の中で、自ら作り出す生命の危機。
「外部と自己との交流」 自分の存在を確信できるカギはきっとそこにあるのでしょう。
そうですね。
速い変化、多様な選択肢、高度な内容、不確実な方向性、希薄な安全性
外部の正体は変容し、便利な社会にはなりましたが、
それらを享受できない存在も大量に排出する社会にもなりました。
工業社会から情報社会。そして知識社会へと脱皮したように、
「勝ち負け」という尺度ではなく、もう一段上質な感性の存在を追い求め、
生活の中で実現させる。
そんな存在の仕方がこれからは常態となるように思えます。
「自己を見失わない」その内容とは、その常態に積極的に参加することではないか。
Happaさんのコメントを拝見し、そんな思いを強くしました。
ありがとうございました。
それではここで聖書の素敵な一節から. . .
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
マタイの福音書7章13〜14節からでしたあ!
追伸/私はキリスト教徒ではありません〜!SkyBirdついに一般公開でございま〜す!(笑い)
おはようございます。
> いろいろHDN・・・
いずれも MacFanさんの個性が輝る内容とタイトルとネームです。
私もコメント用は・・・(ご存知でしたネ)
『狭き門より入れ・・』ですね!!
皆がしたがらないことだからこそ価値がある。ということですね。
スパイラルアップしながら自分も社会も成長させる。
その重要な一要素でもあると思います。
何よりも大切なことは、仕事の仕方にワクワク出来る自分が好き。
そんな感情を持つことだと思います。
それはそうと、私も以前カエルの脚を食べました。
淡白な味でした。
言われなければわからないものです。
特に食事しているときのシチュエーションにもよります。
私の場合は、誰もが知る料理店、会食メンバーの安心感で
違和感が軽減されたように思いました。
でも・・・吉○なんて老舗料理店は食べ残し料理使いまわし
なんてこともありますしね・・・(溜息泣)
コメント追加


自分の存在を確信できるカギのある場所かあ。
実は、それが一番難しいのかもしれません。
なんとなくですが、「外部に勾留され、自己を見失う」ことが一番怖いことであると私は考えてきたような気がします。
ですから、思考を停止することが怖い。
唯一自分が自信を持って言える事は、自分の行く先だけは見失わないようにしている。
ということでしょうか。
でも、その自分の行き先に縛られている自分がいるわけで・・・。
日々、生きる為の勉強ですね。