今日は現実と非現実の境目について語ります。
もしも眼前の世界が自分自身が作り出した虚像だったとしたら・・・・
自分の存在とはどこにあるのだろう。
以前、生物で脳の仕組みについて少しだけ勉強した。
いくつかの神経細胞同士が複雑に絡み合って脳を形成しているのだそうだ。
さて、【心】とはなんだろう。
心、意識、考え・・・・
それらは全て脳が作り出した空想に過ぎないのではないだろうか。
例えば、今この文章を書いている。だが本当は文章なんてないのかもしれない。そもそも、【本当】なんて言葉自体、存在すれども無意味なのかもしれない。
自分の名前は
年齢は
住んでいるところは
答えられる人も多いだろう。
しかし、それが何故現実、いや真実であるといえようか。
もし、記憶を書き換えることができたとしたら、自分がまったく違う誰かに変わってしまう可能性があるのではないか。
住んでいるところは松本市という記憶
それを
住んでいるところは塩尻市という記憶
に
書き換えたとしたら
名前は有賀正という記憶
それを
名前は村井仁という記憶
に
書き換えたとしたら
所詮この世はパラレルワールドなのかもしれない。
真実という現実はどこにもなく、虚構の空間、虚構の記憶が続いているだけなのかもしれない。
では、そんな世界の中で自分を形作るものとはなんだろうか。
心
意識
記憶
いや違う
【記憶】
ではないか。
人が生きた分だけ蓄積される記憶。
人間とは、記憶の上に成り立っているものではないだろうか。
では、記憶を、自分を書き換えることができる世になってしまったら、いや、なってくれたら、どんな世界が待っているのだろう。
脳が神経細胞の塊だというのなら、その脳を擬似的な装置で人工的に作り上げた場合、そこに何が生まれるのだろう。
私が私であるといえる理由、
その根拠はなんだろうか。
記憶でさえ偽造だとして、どうしてその根拠を見つけられるだろうか。
つまり、世の中なんて、嘘っぱちなんだな。
我思う、故に我在り。
そう。全ては自分の信ずるままに在る。
嫌な事も、楽しい事も。
もはや、現実から逃げ出したい。
そんな時には、現実を現実と思わず、虚像を現実と思ったっていいのではないか。
それを止める権利は、
誰にもない。
何故なら、
それが自分の可能性だから。
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