自分の左側はどうやら存在しない。
聴力がないということは、空気を感じられない。
音がないというのは、空気感を感じられないことであると気づいた。
であるがゆえに、より左に集中すると、普段感じられない空気感戸は違う空気感を感じることができる。
今まで均等は美しいものだと思いこんでいたが、不均等こそが実は絶妙のバランスを保ち、美しさを醸し出しているのだと気がつく。
左側に意識を集中すること。
自然に音を「感じる」ことである。
真宗のお坊さんのお話。
人生には、登坂、下り坂、まさかという坂がある。
人として生まれてきたことはとても「希」なこと。
有り難いとは、「有(あ)ることが難(がた)しい」こと。
人は生きることが有り難い。
とは、人として生きることは希な事であり、感謝しなければいけない。
この世の中で、「手を合わせることが出来る動物」は人間だけ。
だから、感謝は手を合わせる。
その人間の一生には坂があり上り下りをこなさなければいけない。
しかし、まさかという坂は人に起こされてはいけない。
人為的な坂は、人間として「希」に生まれてきた事を止められる。
だから、事故を起こしてはいけない。大きな事故も小さな事故も。
そうならないように暮らさなければいけない。
現代社会は、「有り難い」という言葉の本質を忘れている。
仏に祈ることは、「有り難い」本質を理解すること。
大乗仏教は哲学ですね。
ハチドリの話。
これも有名な禅話らしい。
ある森で山火事が起こった。
山の動物はみな逃げているときに、一羽のハチドリが山に向かって飛んでいった。
ハチドリは口の中に水を蓄えて、それで消火しようとしていた。
ある動物が尋ねた。
おまえのそんな小さな体では山火事は消えないと。
ハチドリはこう答えた。
私は私の出来ることをやっているだけです。
日本にハチドリが居ないので、大きさが想像でしか出来ないが、どんな小さな事でも自分の出来ることをやることが大切である。
これと「考え方」でメモした手桶の話とはリンク。
ぼうさんの話はありがたいなぁ。
良い話を聞きました。
水の話。
手桶に汲み取ることで水が生じたのではなく、
大きな水の中から、少しだけ汲み取っただけに過ぎない。
手桶から水を撒いても、水がなくなったわけではなく、
大きな水の中にもどっただけである。
なるほど。
手桶とは、自分のこと。
自分という存在は、大きな水の中から手桶に汲み取られた水と同じく、大きな生命という中から、体という枠に汲み取られた生命の一部であるということらしい。
手桶が必要なのは、その水を使うから。
体に汲み取られたのは、生命を使わなければいけないから。
自分という手桶は、何をするために汲み取られたのか、考えて生きなければいけないんだなぁ。
さすが禅僧の言うことはありがたい。
忘れないようにするためにメモ!
