自我を構成しているもの。
煩悩と欲求。
欲求は煩悩によって生み出される。
欲求によって生じる結果が所作として現れる。
煩悩は戒めなければいけないととくのが仏教。
その結果、欲求を制御できる。
制御した果てに、自我は存在するのだろうか。
仏教では悟りを開くという。
悟りを開いたら、菩薩になる。
菩薩はさらに悟りをひらき、如来になる。
如来は宇宙の中心であり、そこには自我はなくなる。
自我を持つと言うことは、自我同士がぶつかり合い、すり減らしてゆき、やがては如来に近づくための道程。
そのためには、自我を知る必要がある。
ネット上で自我を形成する手段は未だ確立されていないが、アバターはその一つかもしれない。
バーチャルではなく、リアルと融合させることによって、コミュニケーションは生まれるような気がする。
新コンテンツビジネスのためのメモ。
神宮内宮と外宮。
人の世界と神の世界の二面性。
二は一であるという理解は、なかなか得難いかもしれない。
静かなる神、荒ぶる神。
昔の人は二面性こそ一つであり、バランスを保つことを大切と考えてきたのだろうか。
陰陽、太陽と月。そこに人がかかわる。
憑き神とツクヨミ、陰陽から、バランスを取り入れなければならないのかもしれないなぁ。
デザインとは、バランス。
静に見えて、実は動。
日本の「美」というものは、このアタリにヒントがあるのかも。
辞書では「意匠」や「設計」とある。
「意匠」が一番近い意味ではないだろうか。
意の匠(たくみ)。
意とは、意志なのではないか。
意志とは、意が目指すもの。
意志を形にする匠。
あるいみ、巫女や占師、霊媒師と同じかもしれない。
陰陽師や祈祷師は違うかな。
見えざる「意」を形に表すのは、神業とあまり違わないように思える。
「意匠師」と肩書きにした方がデザイナーよりも意味が深いような気がするなぁ。
次の世代に残していくものとは?
今の仕事をたとえば自分の子供に継がせる意味はあるのだろうか。
職業選択の自由という理論は棚に上げる。
そう考えたとき、「デザイン」という仕事とは、いったいどんな仕事なのか。
社会の中で、次へつないでいくデザインの意味とはどういうものなのか、ふと思った。
歴史上、グラフィックデザインと呼ばれるようになったのはまだ最近のこと。
19世紀くらいだろう。
主な目的は「広告」。
プロダクツデザインはもっと最近のように思う。
やはり西洋から。
聖書には、彫像を彫るものは、やがてその行いを恥じるときがくるであろうとかかれている。
それだけ、形になるものには人を引きつける力があるということか。
WEBデザインに至ってはまだまだ始まったばかり。ほんの十数年前。まだ次の世代に引き継いでいない。
今一度、横文字ではなく日本語で「デザイン」を考えてみるべきかもしれない。
Webマーケティングガイド・レポート
WEB屋として今後どう対応していくのか。そろそろ判断の時が近づいてきた気がする。
WEB制作と言うよりも、Web上にあるデータをいかに結びつけるか。
それをAIRなどの技術を使って、再編集出来る仕組みが重要になってくるような気がする。
Web上のデータの紐付けという考え方。
大乗仏教の教え、特に密教の教え。
「草木にも大日如来は宿る」
大日如来は、宇宙の中心。
どこにでも、誰にでも宇宙はある。
ということは、永遠を内包するのではないか。
物質世界に生きるものとして、物質とは原子の密度が高くなっている箇所をさわることができ、薄くなっているところはすり抜けることができる。
物質がその形を維持できるのは、何らかの意志によってそこに「存在させられる」から。
その意志が自分自身から出ているのであれば、電気的な力学によって原子が動かされ、密の度変化が起こると考える。
意志によって物質世界はコントロールされている。
意志とは、原子が移動する行為そのものなのではないだろうか。
その世界は物質世界を内包するためにわかりにくいが、具現化した形が仏教の「輪廻」なのではいか。
自分の中に宇宙を内包することにより、「時」の概念は意志とは密接に働くものの、意志そのものには時の概念が必要ないのではないか。
意志は何度も物質世界と行き来する。
そのとき、物質世界では原子の密度が高くなる。
意志はまた大きな意志の中に内包され、ひとつの物質を形作ろうとしたとき、意識となる。
その連続が永遠なのではないか。
意識は、物質世界で意志を理解することに葛藤し、次の意志を固めていく。
物質の密度が薄くなったときは、意志の目的は達成された時。
意識は物質とともに薄らぐが、次の意志は動き始める。
意志を固め、物質を作ろうとしてたとき、再び新しい意識となる。
その意識は、一つ前の意志によって固められたものであれば、次の意志が固まるまで物質世界で葛藤する。
この繰り返しが輪廻であり、永遠とは「時」の概念から解放されることをいうのではないか。
量子論からもっとアプローチできれば、今現在の無信仰状態から新たな信仰を作ることができ、次の意志、次の段階へあがることができるのではないのだろうか。
ふと思いついたことのメモ。
新製品信仰が揺らいでいると日経新聞に記事が出ている。
既存製品の買い換え需要を期待する既存製品の焼き直しによる製品投入信仰には限界が見える。
ここに来て、あたらしい信仰を組み立てる時期に来ている。
暮らしのデザイン、生き方のデザイン。
人の生き方というのは、一点の思考では表現しきれない。
そこを考えてアイデアをプロットしていかなければならない。
新しい信仰。
オープンソース信仰か?
技術のオープンソースではなく、アイデアと思考のオープンソース化。
ただし、全てにオープンにする必要はない。
そこには、「縁」が関係するだろう。
こんなことは不可能だろうか?
NPO団体の販社としてのビジネス展開。
たとえば、何らかの製品を作っている企業といくつかのNPO団体とでLLPを組織。
環境を考えた製品を扱う販社を作り、各NPOを支持する会員への販売を手がける図式。
あるいみ、ネットワークビジネスであるものの、いくつかの団体がまとまることによる広報の集中と、助成金頼りではない運営ができるのではないだろうか。
大前提に、NPO側の「理念」に「道徳」があることが前提であるが。
思いついたことは、まず因数分解する癖をつけた。
因数分解して小さくしたら、それぞれを微分積分して組み立て直し、別の形に。
因数分解するアイデアを思いつくのは、普段からさまざまなものを飲み込まないといけないなぁ。
WEBは、因数分解したアイデアを、ほかからのアイデアの因数分解した解と、再度くみ上げていくことができる仕組み。
アイデアプロセッサは、Camp Toolsを使用。
フリーウェアながら、アイデアをまとめて行くには便利。OSX Windows LINUXで使える。
windowsならFrieve Editorも便利。
出典は不明なものの、この思考の元で街作りを考えることって、信州にとって世界に誇れる考え方なんじゃないのだろうか。
山や川にも、草や木にも皆生きている。
神仏習合的な考えのような気がしたので、メモ。
自利
自分のためになること。
利他
人のために何かすること。
道徳は利他の行い。
道徳が無くなると、自利ばかりになる。
自分勝手になるということかな。
人のために何かをしてあげることで、社会をうまくまわす智慧かな。
大阪は石山本願寺を中心に栄えた寺内町、京都は前衛都市とした五木寛之氏の切り口。同じような手法で考えたとき、松本はどうなのか?
八面大王の伝説、坂上田村麿の伝説あたりでちらほら顔を覗かせる安曇族の存在が気になる。
元祖!てずや[TEZUYA]さん参照。
出雲族と諏訪族の関係。安曇族の関係。
諏訪族が安曇族を追ったとすれば、当時松本平ではそれなりの力があったのだろうか?
坂本 博氏の説に同調。公益商人の移住は大切な鍵。
信濃安曇族の謎を追う―どこから来て、どこへ消えたか (近代文芸社新書)信濃安曇族の残骸を復元する―見えないものをどのようにして見るか
統治勢力が変わっても、営みはなかなか変わらない。
氏の唱える明科水運拠点説は、江戸期に松本に遷ってきており、陸路の整備で明科から次第に南へ降りてきたのかもしれない。
↓
交易が松本の街を発展させたであれば、仏教よりも神道が信仰的には厚かったのではないだろうか?
参:陰陽師徒然さん
↓
比較的重要な場所に神社が多いのも気になる。
筑摩神社(かつての中心市街地)、四柱神社(松本城封じ?)、護国神社(こちらも明治期)、岡の宮神社。(新まつもと物語より)
(廃仏毀釈でも岡の宮神社周辺の寺院は例外的に守られた。ということは、女鳥羽周辺は寺町?)
街道の交差点になっていると言うことは、15世紀くらいまでは西へ、16世紀からは東と西の中間に属していたのだろうか。北・西・東からくる品の集積的な役割を果たしていたのかもしれない。
松本の文化は交易が底流にある?
↓
様々な文化がごった返す中、勢力は中央政権寄り。
底流に神道を持ちながら、神仏習合の心も持ち合わせる。
信仰心は山岳信仰が盛んだったことも裏付けられるかも。
↓
現代、物質の行き来は運搬技術の高速化によって国内の中間拠点は他に遷った。
では、松本が発展していくためには何が必要か?
↓
現時点での考え:思想の流通ではないだろうか?
十善戒
不殺生。(人を殺してはいけない)
不偸盗。(ふちゆとう・盗みをしてはいけない)
不邪淫。(よこしまな淫行はいけない)
不毛語。(うそをついてはいけない)
不綺語。(言葉を飾ってはいけない)
不悪口。(人の悪口を言ってはいけない)
不両舌。(二枚舌を使ってはいけない)
不慳貪。(ふけんどん・物惜しみしてはいけない)
不瞋恚。(ふしんい・怒ってはいけない)
不邪見。(よこしまな見解をいだいてはいけない)
---
最初の3つは、体に関する戒律。犯したものは刑罰に値する。
次の4つの戒律は、口に関するもの。刑罰に値しなくても、心に言い聞かせるため。
最後の3つは、心に関するもの。
仏教の戒は、刑罰以外に心を重点がおかれている。
参考:モーセの十戒
あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはいけない。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはいけない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の褄、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
---
モーセの十戒は、5番目まで宗教的な戒律。
最初の戒が一神教の主張。
6番目以降が道徳的な戒律。
モーセの十戒は、体に関する戒が多い。最後の戒だけが心に関するもの。
現在では犯罪になるものが戒律としてかかれている。
仏教の戒律の方が、人間の根本を押さえている気がする。
これもまた、どちらの戒も今の日本に無くなっている気がする。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
すべての生きとし生けるものを救おうとする願。
煩悩無数誓願度(ぼんのうむしゆせいがんど)
煩悩を生かした我を大我という。(空海)煩悩を積極的な力とする。
法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく)
世の中のいろいろなことを知りたい。学びたいと思うこと。
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
十戒と六波羅蜜を守り、四弘誓願を自分の願いとして生きる。
今の日本に足りないこと。
仏教の思想ですばらしいものがあったのでメモ。
布施・精進・忍辱・禅定・持戒・智慧。
六波羅蜜といい、集団で生活していく上での智恵。
仏教は宗教ではなく、思想であり、世の中をうまく回していくための工夫と智恵。
鼓動と鬼太鼓座の絶版CDが置いてあった。
松本中央図書館は、5枚までCDの貸し出し可能。
雅楽CD[宮内庁式部職楽部]-越天楽三調/雅楽大系全集があったので、次回借りることに。
Powered by ScribeFire.
