自己が他己を意識し、意識が自分に戻ってくることで、自己を形成。
他己からの反応で自己を確認している。
自己の中だけで自己を確認するためには、自己を消滅させる必要があるのでは?
意識を自己に戻すのではなく、別のものに戻すことで、客観的に自己を見つめられるかもしれない。
自己を消滅させることで、かえって自己の存在感が高くなる。
自己の中の仏生を見つめるとはこういうことかのかもしれないなぁ。
ふと思いついたので、メモ。
考えることを放棄させられているのではないだろうか。
身近な家族を見ていてもそう感じるときがある。
いったい、思考を停止させられているのは何が原因なのか。
一つに、考えなくても生きていけるようになっている「からくり」があるように思う。
その「からくり」の一部に組み込まれれば、あたかも自らの意志で行動し、考えているような錯覚にさえ陥る。そして、その「からくり」には、失敗という選択肢は用意されていない。
あえていうならば、「からくり」からはみ出したときに、意図的に失敗させられるようになっている。
このからくりに気がついている人はかなり多くいると思える。
ただ、何か見えないベクトルが、「からくり」に気がついた人間を抑制しようとする。
どうやら、このベクトルからの解放が一つの意味をなすのではないかと思えてきた。
しかし、団結してこのベクトルに対して戦うという方法は、すでに抑制システムが作られており、意味をなさない。
どうやら、個々で気がつき、個々が解放されること以外、見えないベクトルを破る方法はないように思えてきた。
そのためにWEBは存在するように思える。
その形成される過程を体験。
混沌とした思想の中から、自分の居場所を確保できそうなある一定の規模の思想が共有され始る。
その思想のプラットホームに少し大きな声を出すことができ、思想レベルから現実レベルへの実現可能な方向性を秘めた人物が現れると、その人物は比較的早くひな壇に上げられる。
まさに教祖誕生の瞬間。但し、ここでとても重要な要素がある。
教祖に取り巻く数人の人物が必要で、この人達が教祖像をより鮮明にしていく。
一度ひな壇に上げられると、教祖はもう二度と降りられない。
取り巻き数人は、さらに教祖像を確固たるものにしていくため、仮想敵をつくる。
仮想敵は実在する必要があり、相手が無害であればあるほど良い。
なぜなら、とても些細なことを攻撃材料にすることが出来るからである。
この段階まではまだ混沌としており、取り巻きの知り合いなどで集団は構成される。
また、大切なのはこの時点では未だ教典はない。
教典がないことで、教祖と比較的フラットなイメージがあり、集団の中にいると、特に偏った思想を感じることは少ない。
この混沌とした状態の時に、さらに仲間を増やすことが大切である。
ある程度仲間が増えてきた頃に、いよいよ教典を視覚化する作業がある。
教典を作成する人物は教祖ではなく、取り巻きが行うことが大切。
こうすることで、教祖をより神格化させることができる。
教典を配布し始める頃、初期メンバー数名がおそらく異論を唱え始める。
異論が強くなる前に、排除のベクトルを働かせる。
その方法は、その人が行っていた事や発した言葉を徹底して否定することである。
つまり、村八分にすればよい。
ただし、露骨に行うのではなく、それなりの理由を付けることが大切であり、自ら後ろ髪を引かれながら脱してもらうことである。
これが今後の集団を守る秘訣にもなる。
気をつけなければならないのは、取り巻きが教祖を作り上げているということに気がついてしまった人物である。
こうした人物は、徹底して攻撃するか、徹底して無視を決め込むかのどちらかである。
徹底して攻撃する場合、その人物がどこまで切れ者かを見極める必要がある。
場合によってはかなりのリスクを背負うことになる。
この段階まで来れば、あとは地道に教典を配布し、集会を開き、取り巻きのつくった思想を語っているだけで、ある一定規模の集団まで形成できる。
その数はおよそ100人である。
100人の壁を越えるためには、近い思想を持ちえた顔の広い人物と、声の大きな人物が必要になる。メディアに露出している人はうってつけである。
しかし、ここから集まる人物は、初期100人よりも思想は薄れていく。
その為、ある種サービスの提供(お札やお守り、グッズなど)が必要になる。
現段階ではここまでが自分が体験していること。
そして、初期メンバーでもありながら、遠巻きで眺めているが、この距離感をいつまでも保つことは不可能。
どこかで決裂をしなければいけないが、今はまだそのタイミングではない。
そして、集団の中にはいると、思想が偏っていても中立と思える空気感と緊張感が大切なことは付け加えておく。
※理想主義集団を増やす目的での書き込みではありません。
むしろ、このようなプロセスで理想主義の集団はできあがっていくことを記録したメモです。
また、集まっている人たちは、集団を形成しようという目的ではなく、仮想敵を倒すために集まっています。仮想敵が倒れれば、また新たな仮想敵をつくり出しますが、いずれは、教祖その物が敵になる可能性が大変強い要素を持っています。
その結果、分裂が起こったり、教祖を更に神格化させるために人間神にしたりする場合があります。
たまたまこうした形成のプロセスに関わったため、ここにメモをしておきます。
このような排他的な理想主義集団は気がつかないだけで周りにたくさんあるでしょう。
この事に警鐘を鳴らす意味でも、ここに記録しておきます。
個人で生きていける世の中になっている。
そう錯覚しているのだけど、今まで集団だったものがバラバラの「個」になってきている。
「個」になった結びつきは信頼関係しかないと思う。
集団の時は、見えない力学が働いていたのだが、その力学はもはや小さなものになっている。
そのことに気がつかず、また、気がついていても慣性が働いて、集団の力学で動いてしまったとき、すべての歯車が狂う。
「個」になったときの力学。
多様性を理解しつつ、お互いを認めつつもある一定の距離を保たなければいけない。
この法則を理解していかないと、なかなかうまく進まないのだと思う。
自分の左側はどうやら存在しない。
聴力がないということは、空気を感じられない。
音がないというのは、空気感を感じられないことであると気づいた。
であるがゆえに、より左に集中すると、普段感じられない空気感戸は違う空気感を感じることができる。
今まで均等は美しいものだと思いこんでいたが、不均等こそが実は絶妙のバランスを保ち、美しさを醸し出しているのだと気がつく。
左側に意識を集中すること。
自然に音を「感じる」ことである。

