以前記載したとおり、当ブログ内にて、”裁判員制度”を考えていこうと思います。
記念すべき第1回目は、本当は”裁判員制度の生い立ち”について記載するつもりでした。
しかし、裁判員制度の実施に向けて、考えさせられる判決が昨日の東京地裁で出されたので、今日はその判決に基づいて考えてみたいと思います。
さて、昨日の東京地裁で出された判決とは?
もう昨日からのニュースや新聞でご存知の方も多いと思いますが、”渋谷区自宅マンションにおける夫の殺害及び遺体切断遺棄事件”における判決のことです。
これは、2006年に、自宅マンションで夫を殺害し、遺体を切断してバラバラにし、様々な場所へ遺棄した妻の事件。
事件は、猟奇的な一面がとりあげられたりしたので、記憶にある方も多い事件ではないでしょうか?
また、夫からの暴力についても話題となった事件です。
昨日の判決の中身は、求刑懲役20年に対して、懲役15年でした。
したがって、至極当たり前な判決だと言えます。これが普通の殺人及び遺体損壊遺棄事件であれば・・・。
今回の裁判の最も大きな争点は、”被告人の責任能力の有無”についてでした。
弁護側は、「被告は事件当時、自分自身の意識に従って行動したり、善悪を判断したりする能力が無い、所謂”心神喪失”の状態で、責任能力は無かった。」と主張していました。
つまり、事件当時被告は、精神に異常をきたしていたのであり、しっかりとした判断ができない状態にあったということですね。
心神喪失であったとすると、刑法上は無罪となります。
そして、この心神喪失の状態に被告が陥った原因が”度重なる夫からの暴力”にあったと弁護側は主張したのです。
こうなると、当然のように行われるのが、”精神鑑定”ですね。
今回の裁判においては、検察側、弁護側が伴に鑑定を請求しました。つまり、鑑定医が2人別々に鑑定したわけです。
鑑定結果は、両氏ともに、「被告は事件当時、短期精神病性障害で、”もうろう状態”や、幻覚が起きており、心神喪失状態だった。」というものでした。
この鑑定結果からすると、被告を無罪とする可能性もあったわけです。
裁判所は判決において、「精神鑑定結果について信用性を疑う事情はない。」とし、被告が「短期精神病性障害を発症し、急激に一定の意識障害を起こし、幻聴や幻覚があった。」と認めました。
その上で、「別人格が現れたことはなく、夫を殴ったときの夫の反応などを記憶している。また、暴力を続ける夫から逃れたい、この生活を終わらせたいなどと考え、咄嗟に殺意を抱いた。」とし、「動機は理解でき、犯行の様子に異常はない。」として、なおかつ、「身元が判明しやすい頭部は離れた公園に捨てるなど、犯行の発覚を防ぐ行動をしている」と認定し、「幻覚などの症状はあったかもしれないが、責任能力に問題を生じる程度ではなかった。」として、「責任能力あり」と判定しました。
つまり、裁判所は、「殺害時に精神的な異常をきたいしていたことは事実だろうが、その前後の被告の行動から推察するに、責任能力がなかったとまでは言えないから有罪」と判断したということです。
日本の裁判制度の基本概念として、「自由心証主義」というのがあります。
これは、「事実認定及び証拠評価については、裁判官の自由な判断に委ねる」という原則です。
したがって、今回の裁判において、鑑定医が「責任能力なし」と判断した証拠を採用するもしないも裁判官次第ということになりますから、いくら鑑定結果が「責任能力なし」と判断しても、裁判所が「責任能力有り」と判断することは可能です。
しかし、今回の判決は正直「想定外」であったと言えます。
その理由は、今月25日に示された最高裁の判断に真っ向から対峙するからです。
今月25日、裁判で2度実施された精神鑑定において、その鑑定結果が2度とも「心神喪失」と鑑定された被告に対し、「心神耗弱」であるから有罪とされた被告に対する上告審で、最高裁が、「専門家である精神科医の意見は、公正さや能力に疑いがあったり、鑑定の前提条件に問題があったりするなどの採用できない事情がない限り、十分に尊重すべきだ」として、「心神耗弱」だから有罪とした二審判決を破棄しました。
つまり、よほどのことがない限り精神鑑定の結果を重視すべきと判断したのです。
ちなみに、「心神耗弱」とは、簡単に言うと、「心神喪失」よりも判断能力がある場合のことですが、刑法上は、「無罪」ではなく、「刑を減軽できる」ということになっています。
今回の裁判において、裁判所は、「鑑定医による鑑定結果には、信用性を疑う事情はない。」としているにもかかわらず、「心神耗弱」とも判断せず、「完全に責任能力有り」と判断しました。
つまり、最高裁がたった3日前に示した判断基準を全く無視したような結論を出したのです。
どうですか?
これだけ裁判所、及び裁判官によって判断がバラバラなのです。
さあ、ここからが本題。
「あなたならどうする?第1問」
今回の裁判における精神鑑定結果をあなたは信じますか?
「あなたならどうする?第2問」
仮に精神異常をきたしていたと考えた場合に、精神異常と夫からの暴力の因果関係をどう判断しますか?
「あなたならどうする?第3問」
たった3日間の間に裁判所がまったく異なる判断基準を示しています。あなたはどちらの考え方を指示しますか?また別の考え方ができますか?
この第3問はかなり重要だと思います。
何故なら、今回の事件が裁判員による裁判であった場合、当然ですが世間の注目を集めます。したがって、マスコミがこぞってこの裁判を取り上げるでしょう。
そんな中、自分達(裁判員)が、判決を下す3日前に別の裁判において、精神鑑定についての一定基準が示されれば、これまた当然ですが、「今回のこの判決は、3日後に判決が出される裁判員による裁判とも事例が酷似していることからも要注目です。」というような報道がなされるでしょう。
あなたは、この報道に影響されずに自分自身の考え方だけで判断することができますか?
なるほど~、そう考えると、判例を重視することの意味も理解できるかもしれませんね。
私は、判例に縛られることは避けるべきだと考えていますが、法律というのは人間の感情とはかけ離れたところに位置しているような気がしていますので、判例というのは、人間の生身の感情と法律との架け橋の役割を果して欲しいと考えております。
問題は、我々が裁判員として裁判に参加する際に、裁判官から、「過去の判例においては、今回のような場合、・・・としています。」というような説明が当然あると思われます。
その時に、「じゃあ、今回もそういう方向でいいんじゃないか」というように安易な判断の仕方をしてしまうのではないかということです。
過去の判例と同じ判断をしてはいけないと考えているわけではないのですが、我々一般人が参加する意味が損なわれるのではないかと危惧しております。
>真意を考えることが犯罪の抑止力になる
そうですね。裁判という独特の世界を我々が体験する意味は、そこにあるのかもしれませんね。
というか、そうなって欲しいものです。
このことはテレビで見ていただけでしたが、正直
びっくりしました!
そして、つくづく裁判員に選出(?)されたくないものだ、と
思ったです。
とはいえ、気持ちは完全に他人事なんですよね・・。
勝手なものです。
happaさんの記事でちゃんと学ばせていただけてありがたいです。
コメント追加
裁判ってナンダロウ!!って考えることがあります。
過去の判例は基準の一つにはなっても、それはゼッタイの根拠にはならないのではないか。と。
むしろ、大勢の人を納得させるアリバイ的な意味合いがあるのではないか。と。
神様でない人間には人を絶対的に裁くことが出来ない。その限界を知った人間の知恵なのかも・・・と。
そんなふうに考えると、苦しみながら、あるいは、ある種の感情に苛まれながら 判断行為などしなくても、もっと得意な道具、つまり膨大なデータベースから一瞬にして結論を導き出す記憶装置に判断を任せたほうが、客観性と公明性を持って説得力がアップするだろうと思えてしまいます。
そうではなくて、裁判に、誰が担当しても一定の理解が得られるという、何がしかの価値を持たせるのであれば、それの価値とは何か?
どうして、広く、しかも無作為に選ばれた一般市民に、本来ならば神にしか裁けない、その価値を求めさせなければならないのか?
その真意を考えることが犯罪の抑止力になる。
そう考えることが健全なようにも思えるのです。
法曹界には一般人には理解しがたい常識(言葉からして)があるように思います。
威厳の世界を孤高の世界として保持するのか、一般市民の肌感覚に近づけるのか。
私の場合、裁判員制度に馴染むには、行き先が見えること。裁くことの意味。その価値。を理解することが当面の課題です。